西暦 (元号) | 保阪嘉内 | 宮沢賢治・小菅健吉・河本義行 | 賢治からの手紙・「アザリア」等 |
1896 (明治29) 0歳 | 10月18日、山梨県北巨摩郡駒井村(現韮崎市)に地主の長男として生まれる。父・善作は郡役所書記。 | 〈賢〉8月27日、岩手県稗貫郡里川口町(現花巻市)質・古着商の長男として生まれる。 |
1916(大正5) 7/15「校友会会報」31号 8/2印・葉書1 この度は御葉書を 8/17印・封書2 甲斐に行く万世橋 9/2印・あなたが手紙を 9/5印・葉書4短歌9首(秩父) 9/6付・葉書5短歌9首(三峯山) 11/25「校友会会報」32号 1917(大正6) 1/1印・葉書6ニコライの司教の 1/4印・葉書7東京へ宅の用で 1/7印・葉書8昨日ふと明治座を 3/16「校友会会報」33号 4/2印・葉書9旅からのたより 7/1「アザリア」創刊 7/18「アザリァ」2輯 7/18「校友会会報」34号 7/29印・葉書10短歌6首・視察旅行 8/28付・葉書11今日当地に来ました 8/31付・葉書!2アヲイ山ノナミ 9/2印・葉書13かなしめるうま 9/3印・葉書14短歌4首・剣舞連 10/17「アザリア」3輯 12/16「アザリア」IV 12/27「校友会会報」35号 1918(大正7) 1/1付・葉書15謹賀新年 2/20「アザリア」5号 3/13頃・封書16今聞いたらあなたは 3/20頃・封書17先日は忙しくお別れ 3/29印・葉書18この度は私の手紙と 4/20付・葉書19なんぢはひとり 4/26印・葉書20今徴兵検査で家に 4/30付・葉書21私の古い手紙などを 5/19付・封書22私は春から生物の 5/19付・封書23前の手紙はまだ 6/20頃・封書24南無妙法蓮華経 6/26付・封書25比の度はお母さん 6/26「アザリア」6号 6/27付・封書26かの赤い経巻を手に 7/17印・葉書27私は一寸肋膜が悪い 7/24頃・葉書28私は馬鹿で時々 7/25付・封書29私は馬鹿で弱く 8月頃・封書31丁度日記の頁を 9/27付・封書30昨夕早池峰山付近の 10/1印・葉書32死人と青い生きた 12月初頃・封書33ご決心の程誠に 12/10頃・封書34私があなたの力を 12/16付・葉書35私は求めることに 12/31付・封書36妹が病気で小石川 大7〜8頃・封書70あなたはむかし 1919(大正8) 4月頃・封書37只私のうちは古着屋 5/2付・葉書38短歌4首 5月印・葉書39短歌!首 7月頃・封書44ならずものごろつき 8月上頃・封書40柏原の星あかり 8/20頃・封書410,JADO1 8/30付・葉書42あんな破壊的な私の 9/21付・葉書43別便にて半紙刷 12/23印・葉書45この度はめでたく |
1897 (明治30) 1歳 | 〈健〉 3月12日、栃木県氏家町(現さくら市)に生まれる。 〈義〉 3月21日、鳥取県東伯郡社村(現倉吉市)に生まれる。 | ||
1903 (明治36) 7歳 | 4月、藤井尋常小学校入学。 | 4月、花巻川口尋常高等小学校(明治38歳年に花城尋常高等小学校と改称)入学。 | |
1907 (明治40) 11歳 | 4月、高等科1年生となる。 (翌年、新学制により尋常科6年生となる) | 〈賢〉4月、高等科1年生となる。(翌年、新学 制により尋常科6年生となる) | |
1909 (明治42) 13歳 | 4月、韮崎尋常高等小学校の新制高等科に 入学。 | 〈賢〉4月、岩手県立盛岡中学校入学。 | |
1910 (明治43) 14歳 | 4月、山梨県立甲府中学校入学。 5月、ハレー彗星をスケッチする。 在学中、大島正健校長の影響を受ける。 | 〈賢〉6月、初めて岩手山に登る。 | |
1911 (明治44) 15歳 | 〈義〉4月、倉吉中学に入学。 〈健〉栃木県立農学校に入学。 | ||
1913 (大正2) 17歳 | 作品「昨日他7篇」「鈴の音」「旅のしるし」「北 への旅」など | 〈賢〉4年3学期、舎監排斥運動で退寮。 | |
1914 (大正3)18歳 | 同人誌「颪」「巡礼」発行。 作品「煙他14編」「農業と人と」など。 | 〈賢〉3月、盛岡中学校卒業。 4〜5月、岩手病院に入院。看護婦に初恋。 9月、「漢和対照妙法蓮華経」を読み、感 動する。 〈義〉荻原井泉水に師事、「層雲」にて白由律句 を学ぷ。 | |
1915 (大正4) 19歳 | 3月、甲府中学校卒業。 5月、東北大学札幌農科大学を受験(不合格) | 〈賢〉〈健〉4月、盛岡高等農林学校農学科第二 部に入学。 | |
1916 (大正5) 20歳 | 4月、盛岡高等農林学校農学科第二部に入 学。白啓寮で賢治と同室となる。 5月、戯曲「人間のもだえ」を執筆し、寮 の室友と演じる。 この年「短歌日記」に作品多数。 | 〈賢〉4月、白啓寮南9号室の室長となる。 9月、秩父地方に地質調査見学旅行。 11月、「校友会会報」32号に「灰色の岩」 を発表。 〈義〉4月、盛岡高等農林学校農学科第一部に 入学。 | |
1917 (大正6) 21歳 | 1月、日記帳を使うのをやめノートに歌を 綴る(「ふるふ大地と山々の雪と」、「旅の歌」、 「我は独り」、「秩父始原層其他」、「阿提目多 伽」、「文象花闇岩」など多数)。 5月、自啓寮を出て鎌田方に下宿。 7月!4〜15日、賢治と二人で岩手山に登る。 7月23日、秩父・甲斐・諏訪方面に地質旅行。 10月、弁論大会で「農村教育者としての伯 トルトイ」を述べる。 | 〈賢〉4月、自啓寮を出て弟らと玉井方に下宿。 この年、短歌や散文(初期短編)を創作。 〈義〉9月、石賀加壽代と結婚。 7月7日、「アザリア」合評会の後、賢治・ 健吉・義行・嘉内の4人で雫石まで夜を 徹して歩く。(嘉内はこれを馬鹿旅行と名 付け、賢治は作品「秋田街道」を書く) 10月31日、4人で写真を撮る(盛岡・奈 良写真館) | |
1918 (大正7) 22歳 | 1月、ノート「ひとつのもの」。 3月、盛岡高等農林学校を除名放校処分。 4月、上京。明治大学に籍を置き、受験勉強。 6月、母いま逝去。 11月、帰甲。農業従事のための準備に入る。 | 〈賢〉〈健〉3月、盛岡高等農林学校卒業。 〈賢〉研究生として学校に残り、稗貫郡土性調 査や実験指導補助に嘱託される。 8月、このころ童話の創作を始める。 12月、入院したトシの看病のため母と上京。 〈健〉5月、青森畜産学校教諭。 9月、土壌細菌学研究のため渡米。 | |
1919 (大正8) 23歳 | 2月、「農人」として活動を開始。 8〜9月、帝国農会の青年指導者講習に参 加。 12月、応召(一年志願兵)。 この年のノートは、「盛岡紀行」「新しき生命」 「輝石集」「真実心」「秋の始めより」など。 | 〈賢〉3月、トシの退院により、帰花。 この夏、西鉛温泉で療養中のトシ(一部は シゲ)が賢治の短歌を浄書(「歌稿〔A〕」)。 ・〈義〉6月12日、長男一明誕生。 12月、一年志願兵として入隊。 | |
1920 (大正9) 24歳 | 3月、軍隊批判をし古年兵のリンチを受け る。 4月、一等卒になる。初年兵を庇護。 11月、軍曹となり、満期除隊。 この年のノートは、「蹄鉄の塵」「軍隊日記」 | 〈賢〉5月、研究生を修了。 11月、国柱会の信行員になる。 12月、父に改宗、嘉内に帰正・入信を迫る。 〈義〉4月、「砂丘社」創立に参加。 引き続き甲種勤務演習に応召。 | |
1921 (大正10) 25歳 | 2月25日、山梨県教育会書記になる。 7月1日、見習士官として勤務演習に参加。 7月18日、宮沢賢治と再会。 9月30日、召集解除。 この年「国民日記」(民友社版)をつける。 宮沢賢治・小菅健吉・河本義行 | 〈賢〉1月、家出し上京。 4月、父と伊勢・京都・大阪方面に旅行。 8月中旬〜9月上旬ごろ、帰花。 !2月、稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。「愛 国婦人」に「雪渡り(一)」掲載。 〈義〉1月、嘉内に「詩集」(謄写版)を送る。 | |
西暦 (元号) | 保阪嘉内 | 宮沢賢治・小菅健吉・河本義行 | 賢治からの手紙・「アザリア」等 |
1922 (大正11) 26歳 | 2月、河本義行の「砂丘」に投稿。3月、桂川電気興業会社書記となり、地質調査を行う。7月〜9月、甲種勤務演習応召。 | 〈賢〉1月、「愛国婦人」に「雪渡り(二)」掲載。このころ「冬のスケッチ」を経て詩作を始める。 11月、妹トシ逝去。 〈義〉1月1日、次男輝雄誕生。 3月、長野県の伊北農商学校に赴任。 | 1920(大正9) 2月頃・封書46あかがついてひやり 3月頃・封書47もう馬にはよく乗れ 4月頃・封書48外山の四月をあなたは 5/2印・葉書49短歌2首 5月頃・封書50あの柏原の夜の中で 6〜7月頃・封書51しっかりやりませ 7/22付・封書52白分ノ建テタ願デ 7〜8月頃・封書57オ写真トヲアリ ガタ 8/14付・封書53あなたの外には往来 8/17印・葉書54関先生後動静は 9/4付・葉書55関さんにはもう 9/23付・葉書56御除隊ももはや間近 12/2付・封書58今度私は国柱会信行 12上頃・封書59私が友保阪嘉内、 1921(大正10) 1月中頃・封書60あなたは春から東 1月中頃・封書61南無妙法蓮華経と 1/25印・葉書62突然出京致しました 1/25付・葉書63切に大兄の御帰正を 1/28付・葉書64印刷所に校正係とし 1/30付・封書65お父さんや弟さんを 2月上頃・封書66汽車賃は私が半分 2/18付・葉書67天業民報をばご覧下 5/4付・葉書68ひどくやけくそでは 7/3付・封書69私もお目にかかりた 10/13付・封書71妹の病気も大分に 12月頃・封書72毎日学校へ出ていま 1925(大正14) 6/25付・封書73来年は私も教師をやめ(現存する最後の手紙) 《現存する嘉内宛書簡》 小菅健吉からのもの58通 河本義行からのもの51通 ※書簡については、日付後の「付」は 賢治による日付、「印」は消印、「頃」 は推定であることを示す。書簡種類の後の数字は「宮澤賢治友への手紙」保阪庸夫・小沢俊郎編著の書 簡番号による。 この年譜は、「宮沢賢治友への手紙」 保阪庸夫・小沢俊郎(1968筑摩書房) 「新校本宮澤賢治全集」第16巻年譜 (2001筑摩所房)河本緑石研究会機関 誌「ふらここ」創刊第1号河本緑石年譜(2007河本緑石研究会)小菅健吉年譜(神山壮私家版)「宮沢賢治若き日の手紙展一保阪嘉内宛七十三通一」図録(2007山梨県立文学館)「心友宮沢賢治と保阪嘉内一花園農村の理想をかかげて一」賢治・嘉内生誕110周年記念会、大明敦編著(2007山梨ふるさと 文庫)「宮沢賢治と『アザリア』の友たち」図録(2003さいたま文学館)を 参考に作成致しました。 小菅健吉夫妻 生誕110周年記念展示会ポスター |
1923 (大正12) 27歳 | 劇評「スクリーンの影より」「脚光の下より」。3月、少尉に任官。 7月末まで兵営生活。 9月、徒歩で関東大震災の救援に行く。 | 〈賢〉4月、稗貫農学校が県立花巻農学校となる。〈義〉4月、鳥取県県立倉吉農学校の武道教師となる。(のち舎監・農業・数学の教諭) | |
1924 (大正13) 28歳 | 1月、韮崎で峡北短歌研究会の活動を開始。6月、甲府中学の後輩・野口二郎の請で編集及び文芸部記者として山梨日日新聞社に入社。 | 〈賢〉4月、『春と修羅」刊行。12月、『注文の多い料理店』刊行。〈義〉2月15日、三男俊彦誕生。 | |
1925 (大正14) 29歳 | 3月22日、佐藤さかゑと結婚。 5月、山梨日日新聞社を退社。その後1931年まで営農。 | 〈賢〉この年の春に翌年には農学校を退職する決意をする。 〈義〉詩集「夢の破片」を刊行。 1O月16日、長女葉子誕生。 | |
1926 (大正15/昭和1) 30歳 | この年、「当用日記」(積善社版)をつける。 1月3日、長男善三誕生。2月、木喰五行上人奉讃会発足。柳宗悦・小宮山清三らと諏訪に講演行。 7月、青年訓練所開所。 | 〈賢〉3月、花巻農学校を依願退職。下根子桜 の別宅で独居白炊生活に入る。 6月、「農民芸術概論綱要」をまとめる。 11月、羅須地人協会活動開始。 12月、上京。エスペラント語講習など。 〈健〉10月、米国より帰国。 11月、花巻で賢治と再会。 | |
1927 (昭和2) 31歳 | 1月、在郷軍人会分会長となる。2月、青年訓練所主任となる。5月29日、次男庸夫誕生。 | 〈賢〉この夏、肥料設計、稲作指導に励む。天 候不順で被害大。 〈健〉7月、愛媛県立宇摩実業学校教諭。 〈義〉7月22日、四男静夫誕生。 | |
1928 (昭和3) 32歳 | 2月、「我が友農村芸術家Mについて」講義。8月、甲種勤務演習に応召。このころ歌集『尖兵』の出版を計画するが、原稿を預けていた書店が火災に遭い、頓挫。 | 〈賢〉6月、上京し大島に伊藤兄妹を訪間。 8月、発熱し病臥。一旦回復するも再度 発熱。羅須地人協会の活動を断念し、実 家へ戻る。 | |
1929 (昭和4) 33歳 | 7月、駒井村の村会議員となる。また、農事組合長ほか各種の役職を引き受ける。8月21日長女牧子誕生。8月、乙種勤務演習に応召。 | 〈賢〉10月、東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。 12月、鈴木宛に「石灰石粉の効果」を送付。 〈義〉11月7日、次女道子誕生。 | |
1930 (昭和5) 34歳 | 3月、中尉に任官。8月、日本青年協会主催の青年指導者講習会に参加。農業伝習所設立の構想に憑かれる。 | 〈賢〉1月、文語詩の創作を開始。 4月、鈴木東蔵が来訪。 9月、東北砕石工場を見学。 | |
1931 (昭和6) 35歳 | このころ峡北短歌研究会が自然解消。 各種の役職を辞任。田地を整理して離村。10月、東京府下久留米町に移り、日本青年 協会武蔵野道場主任・武蔵野女学院講師となる。 | 〈賢〉2月、東北砕石工場の技師となる。 9月、壁材売り込みのため上京するも発 熱し、病臥。東京の八幡館で死を覚悟。 11月、「雨ニモマケズ」を手帳に記す。 〈義〉10月1日、三女順子誕生。 | |
1932 (昭和7) 36歳 | 3月、豊島区東長崎に転居。6月ごろ、長男の病床で「グスコーブドリの伝記」を読み聞かせる。この年から翌年にかけて全国の農村伝習所を視察する。 | 〈賢〉3月、『児童文学」に「グスコーブドリの 伝記」を発表。 4月〜5月、佐々木喜善がしばしば来訪。 〈義〉6月、三女順子天折、遣悼のため「香花集」 を刊行。 12月31日、五男行雄誕生。 | |
1933 (昭和8) 37歳 | 4月、日本青年協会主事補となる。 | 〈義〉尾崎放哉の伝記「大空放哉伝」を脱稿。 7月18日、農学校の水泳訓練中、溺れた同 僚を救助した後に自身は心臓麻癖で逝去。 〈賢〉8月、「文語詩稿」の推敲を終える。 9月21日、逝去。 | |
1934 (昭和9) 38歳 | 2月、豊島区雑司ヶ谷に転居。 4月、日本青年協会退職。アミノ酸醤油、 砂鉄精錬など農村副業の研究を行う。 富国生命の外交貝となる。 | ||
1935 (昭和10) 39歳 | 2月、胃の不調を感じる。 4月、小石川区都市緑化計画臨時雇員となる。 | 〈義〉4月、「大空放哉伝」刊行。 10月、遺族の編集で句集「大山」刊行。 〈健〉9月、蕪崎青年学校職業科指導員委託。 | |
1936 (昭和11) 40歳 | 2月、胃疾患が悪化。 7月、子どもたちを山梨の実家に帰らせる。 11月、療養のため帰郷し、病臥。 | ||
1937 (昭和12) 41歳 | 2月8日、逝去。「人は皆、こうして自然に帰ってゆくのだ」との言葉を遺して世を去る。 | 〈健〉4月、京都府立須知農林学校教諭。以後、同校・北桑田農林学校・京都農林学校の校長などを歴務。 | |
1949(昭和24) 1952(昭和27) 1957(昭和32) 1966(昭和41) 1977(昭和52) | 〈健〉52歳3月、栃木県立鹿沼農商高等学校教諭。 55歳4月、栃木県立宇都宮農業高等学校教諭。 60歳4月、私立宇都宮学園高校、同宇都宮女子商業高校教諭。 69歳3月、同校退職。 80歳5月30日、逝去。 | ||
2006(平成18) | 5月宮沢賢治・保阪嘉内生誕110周年記念実行委員会結成。 7月河本緑石研究会発足。 | ||
2008(平成20) | 7月アザリア記念会発足 | TOPページへ戻る |
保阪嘉内・宮沢賢治アザリア記念会事務局 山梨県韮崎市穂坂町宮久保5036-30
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